選択的夫婦別氏 〜 別氏だった日本

(プレス民主号外2010年2月号より)


◇ 選択的夫婦別氏

現在、民法改正法案を準備しています。多くの人には、「選択的夫婦別氏(姓)法案」の方が分かりやすいかも知れません。選択的夫婦別氏とは、婚姻の際に夫婦の氏を同じにも別にも選択できる制度です。

すでに法制審議会では平成8年に答申が出ています。しかし、その民法改正については、「日本の伝統に反する」「夫婦の絆を破壊する」という批判があり、現在まで法案の提出に到っていませんでした。


◇ 夫婦別氏だった日本

色々なところで説明をさせて頂くと、意外に夫婦の氏(姓)についての歴史は知られていません。日本の夫婦の氏(姓)が同氏となった歴史は比較的浅く、明治31年(1898)明治民法施行の時からです。それまでは夫婦は別氏とされていました。氏は血統を示すものとされ、婚後も女性は実家の氏を名乗りました。例えば、源頼朝の妻は北条政子足利義政の妻は日野富子です。

江戸時代は「名字帯刀」と言われるように、特別に許しがある場合を除いて特権である氏(名字)を名乗るのは武士に限られました。一般の国民に氏を名乗ることが許されたのが、明治3年(1870)の「自今平民苗字被差許候事」という太政官布告でした。


ただ、その後、徴兵などで国民を把握するため、国家の側から国民全てに氏を公称させる必要が出てきました。そこで、明治8年(1875)「平民苗字必称令」という太政官布告が発せられ、国民全てに氏が強制されました。

ここで問題になったのが、妻の氏でした。妻の氏については夫の氏に変えるのか、実家生家の氏を名乗り続けるのか。判断のつかない内務省は、太政官に問いました。そこで出されたのが、明治9年(1876)の太政官指令でした。今までの日本の伝統を重んじ、武家など特権階級の慣習となっていた別氏が強制されたのです。


◇ 庶民の反発

しかし、庶民の側から反発が出ました。農家や商家など夫婦が共に働き生活を維持する庶民では、妻は婚家における一定の地位を占めており、嫁入り後は夫の氏を称することがごく自然だと考えられました。つまり、庶民感覚では氏は生活を共にする経済単位を称するべきとされたわけです。

そこで、明治9年の太政官指令から22年後の明治31年、明治民法施行の際に「家」制度の導入と共に「家」の呼称としての夫婦同氏が規定されたのでした。(「夫婦の氏を考える」井戸田博史(世界思想社:2004年)参照)

夫婦の氏を考える

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◇ 別氏は日本の文化や家族を破壊するか

今まで述べたように、日本古来の伝統は別氏でした。もし、別氏が日本の文化や家族を破壊するのであれば、明治後期までの日本は文化も家族も崩壊した国であったことになります。

氏の歴史を見れば、形式的に同氏が良い・別氏が良いという話ではありません。まず何よりも夫婦の治まりが大切であり、その上でそれぞれの個人の呼称である「氏+名」は、経済などの社会情勢や身分制度の変化により、その時代の夫婦が生活しやすくするために形を変えていくべきだということが分かります。それぞれの夫婦がその生き方を相談して、称する氏も決めてゆける国にしたいものです。