(再掲)憲法9条と集団安全保障


今日は憲法記念日です。読売新聞の特集を読んで、このブログで2008年末に憲法改正憲法解釈の変更について書いた記事を、あらためて再掲することにしました。


2008年12月14日
「[小沢一郎研究]憲法9条と集団安全保障」
http://d.hatena.ne.jp/NakamuraTetsuji/20081214

[小沢一郎研究]憲法9条と集団安全保障


あの「大連立」騒動から1年が経ちました。あのとき、福田総理と小沢一郎代表の間で何があったのか、まだ国民的な理解は進んでいないと思います。マスコミの検証もありません。

私も確たる証言を得ているわけではありません。しかし、私も政治家である以上、自分の分析からは真実について確信があります。(あのときの私の分析については、以下をご覧になってください。(昨年の11月7日の記事です))
http://d.hatena.ne.jp/NakamuraTetsuji/20071107


小沢一郎は、何を考えていたのか。
あのとき福田総理との合意できた内容から、「もうこれで政治家を辞めてもいい」と小沢一郎が思ったのではないか。


あらためて、今日、ぼんやりとそんなことを考えていました。


昨晩、自分が政治家をやっていること、辞めるまでにやりたいことについて、考えて話す機会がありました。

辞めるまでにはいろいろと実現しなければならないことがあります。そのうちでも、やはり、安全保障、憲法9条のことが心に一番ひっかかっています。


結論から言えば、憲法9条を活かして国際貢献をする方法がある。それが今はできていない。また、そうするためには、憲法改正ではダメで、憲法解釈の変更をしなくてはならない。

私が小沢代表を支持している一番大きな理由は、ここにあるのだとあらためて自覚しました。


憲法解釈の変更については、永田町で3つの立場があります。


A.一つ目は、自衛隊の海外派遣について積極的な立場から、憲法解釈でなく憲法改正によるべきだという主張です。私が憲法改正に消極的なのは、日本が日本として果たせる役割が憲法改正によって果たせなくなる可能性が高いと判断しているからです。


B.二つ目は、自衛隊の海外派遣について消極的な立場から、憲法解釈の変更は「解釈改憲」になるという主張です。この立場では、現在展開している国連のPKOについて、日本は消極的にしか参加できないことになります。


C.三つ目が、自衛隊の海外派遣について国連のPKO(7章の下での「強化された」PKOも含む)に限って出していこうという立場です。私の立場(基本的に小沢一郎代表の立場)は、ここに当ります。しかし、残念ながら、国会の中では少数派になっています。(ただし、民主党の政権政策の基本方針(政権マグナカルタ)では、この立場になっています。)

この場合、自衛隊の法的性質については、(1)自国=日本の本土防衛のための自衛隊と(2)国連の活動として国連の部隊の指揮下に入る自衛隊を分け、(2)については、国連の部隊としての国連固有の自衛権の行使はできるという憲法解釈の変更が必要になります。


Aの立場からC の立場へは、55年体制の下で、憲法解釈が築き上げられて来たのだから、安易に変えるべきではない、変えるのであれば、憲法改正によるべきであるという指摘があります。

これに対してC の立場からの反論として、確かに、合目的的に(御都合主義的に目的に合わせて論理性もなく)憲法解釈を変えることは許されない。しかし、そもそも国際法も「武力行使を含む戦争の違法化」を目的として定められている以上、日本国憲法の「平和主義」の観点から、国際法に合わせる形で憲法解釈を変えることはかえって憲法を正常な運用に引き戻すことになるという主張ができます。


Aから見ればC はBと同じ立場だし、Bから見ればC はAと同じ立場なので、なかなかC の立場というのは、理解されにくいのです。

しかし、P5(常任理事国の5ヵ国)のような軍事大国でもなく憲法9条を持ち、世界第2の経済大国だからこそできることは、C の立場でないとできません。


このことは、死ぬまでにきちんと国民の皆様に伝え、分かってもらいたい。
あらためて今日、そう思いました。


小沢一郎代表も、たぶん同じ思いなのではないか。
そう思いました。


内容については、今日、そのまま通用します。
この記事を書いてからも既に1年半が経ちます。


日本という国は、自らを見つめようとしない。
内田樹「日本辺境論」を読みながら、そんなことを感じました。

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