「コメント欄」閉鎖と凍結の間

11月25日と26日の当ブログの記事に関するコメントで、catoさんの表現を借りるならば、「読む人を不快にする」文章が続いています。いわゆる「フレーム」の現象です。

私は、10年前のパソコン通信の時代から、ネットでの言論活動をはじめました。おそらく、このサイトをご覧になっている方の中でも、私よりも長期間ネット世界の言論を見てこられた方は、そんなには多くないと思います。

その頃から、実感してきたことは、ネットでの文章は人を傷つけやすいということ、また、人を傷つけやすい文章を書きやすいということです。このサイトにおいても、読み手が不快になると思われる書き込みが続きました。私の本意ではありませんが、2つの署名に対して、このサイトでは初めて書き込みを凍結いたしました。

このブログにおいて、私は、「表現者・作者」であると共に、「サイトの運営者」でもあります。サイト運営者として、第一に考えなくてはならないことは、「書き込みをしないが読んでいる多くの人たち」のためのサイトを作ることです。


パソコン通信の時代、「書き込みをしないが読んでいる多くの人たち」は、「ROM」(リード・オンリー・メンバー)と呼ばれました。フォーラムでは、ROMに配慮する書き方が求められました。

私がメインに書き込みをしていたのは、ニフティサーブ(現ニフティ)のFNETD(エフネッドディー:ネットワークデモクラシー研究会フォーラム)でした。このフォーラムで学んだことが、今日の私の表現を作っていると思います。


なぜ、1999年に私がメールマガジン(メルマガ)を発行し始めたのかと言えば、ニフティでの経験から、「読み手にとって、表現者を限るメディアが必要だ」と感じていたからです。

パソコン通信のフォーラムは「多対多」のコミュニケーションなのですが、必ずしも、書き手が「読み手」に配慮をしてない。むしろ、「読み手」に好ましいのは、「一対多」のメディアがたくさん生まれることなのではないかと考えたからでした。

メルマガは、まさに一対多のメディアとして、最適なものだと思いました。


政治問題は、特にフレームが起こりやすいテーマです。知識レベルの違い、また、志向の違いがダイレクトに対立という形に表れやすい。

フォーラムでの書き込みに限界を感じていた私は、メルマガを発行することで、自分自身の言論活動の場を求めたのでした。


その結果、メルマガで書いている内容が評価され、2000年に民主党奈良県第2区の候補者に推薦されたのは、読者の皆様がご存知の通りです。


私は、ブログを始めるに当たり、実は、「コメント欄」については、基本的にはクローズでやるべきと考えていました。それは、「読み手」のことを考えると、政治問題を扱う自分のサイトを「多対多」の場とするにはまだ時期尚早なのではないかと考えたからでした。

ただ、一方で、インターネットのメディアとしての成熟度合いを検証したい気持ちもありました。そこで、初めからコメント欄をクローズにするのではなく、1ヶ月の期間を区切って、試行的にオープンにしていたのでした。

1ヶ月の試行期間の後、「読み手」の視点から見て、コメント欄の記述が、私が書く本文の記事を深めるものが過半を占めているかどうかを基準にしようと考えていました。


当初、12月1日にクローズにするつもりだったので、1ヶ月たって、思った通りネットの文化はまだ未成熟であると実感したからでした。

ネット上であろうと、リアルな場であろうと、言論の場である以上、大人として表現の成熟が求められます。書いている本人は、感情的になっていないと思っても、他人が見れば感情的になっていると受け取られることは、よくあります。

結局、コメント欄自体をクローズにするのではなく、特定の署名による書き込みを凍結する措置にしたのは、書き込み自体を残すことで、書き込みをする他の方々に「他山の石」にしていただこうと考えたからでした。また、この措置ならば、「凍結」措置自体に対する私への批判も書いていただける余地も残すことになります。


このようなサイト運営については、それこそニフティのフォーラムの時代から議論されてきた古くて新しい問題があります。私は、結局は、書き手それぞれがどこまで相手・読み手を配慮した書き方ができるかどうかだと思います。

しかし、それができないという現状では、サイト運営者の側で、インターネットでの情報提供については、情報の選別をしなくてはいけないと感じています。

本当に残念なことです。